チーム歴史

同好会発足から創部までの1960年代、川越監督と運命的に出会い、「常勝千葉商」の礎を築いた1970年代、あと一歩が届かずに低迷していった1980年代、不屈の千葉商魂で見事に復活した1990年代、高校経験者が支えた2000年代、人員不足からもがき苦しんだ2010年代と今もなお勝つために飽くなきチャレンジを続けるリカオンピクタスの歴史をご紹介いたします。

1967年(昭和42年)

千葉商科大学アメリカンフットボール同好会が発足。

1968年(昭和43年)

ハンドボール部大矢貴一氏の紹介により高木氏(拓殖大学)を初代監督に招聘。正式に体育会アメリカンフットボール部が誕生する。初代部長に北川 駿先生が就任。

1970年(昭和45年)

パイオニアリーグ加盟。コーチ等は在籍せず、部員が試行錯誤でフォーメーションや練習方法を考え練習していた。試合人数が足りない時は、他部よりの応援で参加していた。

1971年(昭和46年)

川越啓次先生と運命的に出会う。そして創部期の部員たちの熱意により、川越監督就任。

1972年(昭和48年)

関東学生フットボールリーグ(東京7、関東7、さつき、ローズ、首都7)の首都7大学リーグに準加盟。オープン戦では、日大、法政とも試合をする。初参加したリーグ戦は厳しい戦いを強いられたが、松田主将を中心に関東学院大と上智大に勝利し、「常勝千葉商」の基礎を作りあげた。ちなみ千葉商の長ラン(長い学生服)姿を見て怯えていたチームもあったとか?

1973年(昭和48年)

首都7大学リーグに正式加盟。川越監督の日体大流の練習方法、ゲームプランが選手に浸透。河西主将をはじめ、城内、伊豆、中川らの強力ラインが迫、近藤、山崎らのランプレーを優位に展開させ、リーグ戦参加2年目で初優勝を飾る。関東選手権ではローズリーグの東京経済大と対戦し18-18の同点で抽選となり敗戦したが、「関東に千葉商あり」とその実力を知らしめた。

1974年(昭和49年)

13名の主力メンバーが卒業してしまったが、伊豆主将、中川らの強力ラインは健在、バックス陣も中島、山崎、吉田と俊足RBをラインナップ。下級生のレベルアップにも成功し、河西、近藤コーチの指導も仰ぎながら、リーグ戦を5勝1分で乗り切り連続優勝をもぎ取る。関東選手権は関東7の東海大と対戦するも、千葉商オフェンスを徹底的に分析した東海大ディフェンスに見事に完封され1回戦で敗退した。

1975年(昭和50年)

3年連続優勝も確実と思われたリーグ戦だが、対戦各校とも戦術分析により千葉商を徹底マーク。ラインが若手中心で経験不足もあり、本来の力が出し切れず5位に沈む。この年より首都7大学リーグは駒沢大が加入し首都8大学リーグとなる。千葉商ユニフォームも紺・黄ラインから赤・白・シルバーのオハイオカラーに変更された。

1976年(昭和51年)

前年度の反省を元に小川主将が立て直しをはかる。徹底的なラインの強化により、黄金期を彷彿させる菊地、山田などの若手ラインメンが急成長し戦力となる。しかしリーグ戦は宿敵国際商科大(現・東京国際大)に僅差で敗れ2位となる。推薦枠で出場した関東選手権では、川越監督の母校日体大と対戦、善戦するも35-6と敗れ1回戦の壁は突破できなかった。

1977年(昭和52年)

伝統の強力ラインが復活し、バックス陣とのコンビネーションも安定する。伊藤主将、岡村・小口副将がチームをまとめてリーグ戦に臨み、宿敵国際商科大(現・東京国際大)には1敗を喫すも圧倒的なディフェンス力でリーグ優勝を果たす。しかし、関東選手権では前年同様、日体大に100-0の大差で敗退、上位校との差はまだまだ大きいと実感した。

1978年(昭和53年)

山田、清水、菊地、高橋とスピード&パワーのラインと吉田、松本などのバック陣、清水-安部のホットライン、渡辺、吉原などハードタックラーを配した攻守ともに千葉商最強の布陣。リーグ戦は他を寄せつけない圧倒的な力で完全優勝を果たし、関東選手権では王者日大との対戦となる。無敵の日大に対し68-0で敗戦するも、QB清水のパス、NG菊地の果敢なラッシュ、LB渡辺のハードタックルなど・・・日大篠竹監督に「個人技は千葉商が上、総合力で日大が上回っていただけ」と絶賛された素晴らしい試合だった。(失点68は選手権を通して最少失点だった)

(参考資料)
月刊アメリカンフットボールマガジンTOUCHDOWN誌79年1月号記事
第9回関東大学選手権大会日大戦

4年生とコーチ陣

1979年(昭和54年)

4年・3年の層が厚く部員数も50名を超えるチームとなる。オープン戦ではケガ人も出たが、リーグ戦は7戦全勝で2年連続完全優勝を果たした。関東選手権はオープン戦でも対戦した法政大学。重量ライン・パワープレーの法政に対し、QB清水をショットガンフォーメーションに配し、多彩なパスプレー、RB渋谷のランで攻め、法政得意のオプションをLB渡辺、吉原はじめとするセカンダリー陣で封鎖し互角の戦いをする。しかし、法政のパントフォーメーションからのスペシャルプレーなどで得点され、21-7で惜しくも悲願の1回戦突破はならなかった。リカオンピクタスというチームネームもこの年から付けられた。

(参考資料)
月刊アメリカンフットボールマガジンTOUCHDOWN誌80年4月号特集記事
「1979年度東西攻守チーム記録ベスト10」
トータル守備ベスト10
ラッシング守備ベスト10

1980年(昭和55年)

翌年より1部・2部のリーグ編成となる並列リーグ最終年、首都8大学リーグは大激戦となる。主力メンバーは卒業して戦力ダウンはしたものの、吉原主将が「常勝千葉商」の伝統を引き継ぐべく、春のオープン戦より法政・慶応など上位校と試合を組みリーグ戦に臨む。おりしもサッカー・ラグビーと共用だが、柔らかい土のグランドが完成し試合・練習も充実する。そんな中で迎えたリーグ戦は「常勝」の流れはそのままに、順調に白星を重ねる。6勝同士で迎えた駒沢戦、明大八幡山グランドは大雨で水田状態の泥濘戦となり、1TDビハインドで迎えた4Q、必死のドライブからRB渋谷がエンドゾーンを駆け抜け同点と思われた。しかしその前に無常にもイエローフラッグが出ており「幻のTD」となって駒沢戦は0-6で涙を飲んだ。同率優勝だったが直接対決の結果で駒沢が1部リーグに編入、千葉商は2部リーグからのスタートとなった。

1981年(昭和56年)

2部スタートとなり対戦チームも青学・筑波・明星・明学・創価・国学と変わる。しかし「常勝」の流れは途切れることなく長居主将以下4年生を中心にチームを盛り立てる。QB丹野が展開するオプション、RB藤森のダイブ、DE江刺のラッシュ、DB末政のインターセプトとファイトあるプレーでリーグ戦を勝ち進む。青山学院との全勝同士の最終戦、綿密なゲームプランを立てて臨んだが21-21と同点のまま引き分け2年連続同率優勝となった。後日、入替戦を賭けて関東学院大金沢八景グランドでの再試合だったが、厳しいリーグ戦で傷んだ選手も多く万全な状態ではなかったことで思うようなゲームができずに敗戦し、1部入替戦は青山学院が出場することとなった。

1982年(昭和57年)

昨年の惜敗をバネに臨んだリーグ戦だったが、首都8リーグからのライバル校である明星大にバランスの取れた攻守を展開され敗戦、筑波にも敗れて2敗を喫し3位となる。

1983年(昭和58年)

オフェンスQB安村からWR遠藤へのパス、RB田中のパワーラン、ディフェンスはNG指田、DE青木、大坂の強力ラッシャーを武器に16人の4年生をスターターに配置し、4年間遠ざかっているリーグ優勝を狙える位置にいた千葉商。全勝対決となった筑波大との最終戦、QB安村のロングパスで先制するも途中で追いつかれ、一進一退のまま終了間際に筑波大に逆転を許し、12-6と惜しくも敗れた。筑波大は入替戦にも勝利し1部に昇格した。

1984年(昭和59年)

主力選手がほとんど卒業したが、小田桐主将を中心に厳しい練習に打ち込んでいた。しかし、厳しい練習ゆえにケガ人も多くなり、大量の中途退部者を出してしまう。20名そこそこで臨んだリーグ戦だったが6名の4年生と下級生の力が合致、全勝の東経大と引き分けて3位に食い込んだ。しかし大幅な戦力ダウンは否めず、チーム再建が急務となった。

1985年(昭和60年)

前年何とかリーグAクラスに留まりチーム再建を試みるが、部員の減少による影響は目に見えて出てしまい、ケガ人のリザーブもいない状態であった。しかしその中でも庄子主将がチームをまとめてリーグ戦に臨むも1勝4敗1分と2部残留の危機が迫る。

1986年(昭和61年)

久しぶりに高校フットボール経験者も入部し、監督・コーチングスタッフで選手の基礎体力アップや練習方法の再検討などあらゆる手段を試みる。徳永主将を中心に厳しいリーグ戦を戦うが、下級生に頼る部分も多く、全敗し3部に降格してしまう。

1987年(昭和62年)

長年チームを指導してきた近藤ヘッドコーチが引退し、安部コーチがチーム再建のためにヘッドコーチとなる。着実にチーム力は上がってきているが、まだまだラインの強化が進まず3部リーグの上位校とのライン戦に力尽き、2勝止まりで3位に留まる。

1988年(昭和63年)

安部ヘッドコーチを中心としたスタッフの努力も実を結び、選手は確実にレベルアップしてきた。と同時に部員勧誘も軌道に乗り、高校アメフト経験者が核となりチームの意識も変化を見せる。そして臨んだリーグ戦では、大型ラインの宇都宮大には18-8で敗れ2位となったが優勝を狙える位置まで確実に戻ってきた。

1989年(平成1年)

監督長男、QB川越も最上級生になり、五十嵐主将、吉田、戸田、高校経験者の熊倉、木村をはじめフットボール経験者も増えてチーム力が伸長する。しかしリーグ戦は帝京技科大の鉄壁ディフェンスを打ち崩せず2位となり、3部リーグ脱出はならなかった。

1990年(平成2年)

後藤主将をはじめ部員も30名以上となり、全盛期の千葉商を彷彿させるチームに成長。しかしリーグ戦は雨中の泥濘戦も多かったとはいえ、薄氷の勝利の連続だった。全勝同士で迎えた神奈川大戦も60名以上のマンパワーに善戦、QB柳川のランで先制したものの、ターンオーバーから一気にモメンタムを神大に奪われ、流れを取り戻せないまま7-27で敗戦し2位で終わった。

1991年(平成3年)

春前より取り組んできたリクルーティングが実を結び、マネージャーを含め36名が入部し、総勢66名のチームとなった。6月には東京国際大学アメリカンフットボール部創部25周年記念試合の第1回シルバーボウル(オール東京国際大vsオール千葉商大)が千葉マリンスタジアムで行われ、オール千葉商大が0-14で勝利、最優秀選手に小林真基(千葉商2年)が表彰された。リーグ戦は上位校の東京農大、武蔵工大に星を落とし3位に留まった。

1992年(平成4年)

小泉主将をリーダーに船越、松浦、幕田らのラインメン、経験を積んで伸びてきたQB小林、RB岡田、WR茅場、下級生のリザーブも層が厚く、安部ヘッドコーチの綿密なラン&シュート攻撃も完成しつつあり、3部Dブロック優勝は2部から降格の亜細亜大と千葉商に絞られた。強敵亜細亜大に対し選手一丸となって粘り強くダウンを進め、ディフェンスも何とか1TDに抑えて優勝し2部入替戦を決めた。2部入替戦は獨協大学が対戦相手と決定し、獨協対策を講じたがそれ以上に獨協の千葉商対策が勝っており、千葉商のウィークポイントを攻め続け35-13と敗戦した。2部への道は近いようで遠いと改めて認識した厳しいゲームだった。

1993年(平成5年)

女子マネージャーを含めて87名と人数では2部上位チームにも匹敵するほどになり、昨年の雪辱を期し星野主将がチームをまとめる。オフェンスフォーメーションはIフォーメーションQB小林、1バックQB高橋と2ユニットを使い分け、RB中田、川村、レシーバー陣は増田、栗原、四十万、若林、大矢とメンバーも豊富、ディフェンスはDL星野、免出、LBは武井、鹿目、三尾、木村の連携抜群の3年ラインバッカー陣で臨む。リーグ戦は初戦より厳しい戦いが続くも連勝し、全勝同士で前年同様、亜細亜大と最終戦を迎える。亜細亜大はこのリーグ戦を千葉商へのリベンジに費やし、強烈なブリッツディフェンスを展開、千葉商OLのパスプロが対応できず、QBサック、インターセプトと攻撃システムを立て直せないまま7-28で涙を飲む。人数は多かったがラインの層が薄く、スタメンとリザーブの力の差も大きく、大事な場面でのミスが勝負の分かれ目となった。

1994年(平成6年)

12名の卒業生を出したがまた18名の1年生が入部し総勢91名、そのうち4年生が20人以上と千葉商歴代最高人数となった。QB高橋も4年となり司令塔として円熟の域に達し、控えQB熊田も成長、レシーバー陣は前年メンバー変わらず、LB4人衆(武井、鹿目、三尾、木村)も鉄壁な守備でゲインを許さない。懸念されていたラインメンも斉藤主将、大塚、加藤、秦をメインに松前、小倉、垂石など若手も追随する。春のオープン戦から日大、法政、山学、防衛などと1、2部の強豪校と試合を組み、厳しい戦いも経験し秋への課題を克服していく。そして迎えたリーグ戦は高橋、熊田のQB陣が安定した得点を重ね、ディフェンスは4戦で失点13と安定した守備力を保持し、最終戦を待たずに優勝、念願の2部入替戦の切符を手に入れた。12月極寒の川崎球場での入替戦、相手は東京学芸大と相手には申し分ない。試合はQB高橋がWR大矢への52ヤード超ロングTDパスで完全に流れを掴んで優位に試合を運び、雨天になってからはRB中田のランなどで3TDを加えた。ディフェンスはリーグ戦同様にLB武井のQBサックやLB木村のハードタックルで4Qの1TDに抑え6-26で勝利し、本当に長かった3部からの脱出に成功した。

1995年(平成7年)

2部リーグに上がったものの翌年にリーグ大幅改編を控え、上位4チームに食い込まなければならない試練の年となった。対戦チームは上智、横国、大東、拓殖、東国、国士舘と手強い相手ばかりだ。そんな中で小倉主将をはじめQB熊田、WR若林、LB塚原らの4年生がチームをまとめ、久々の2部でひと暴れできるか?リーグ戦が始まり、千葉商は上位の上智、横国に苦しみながらも連勝し、期待の持てるスタートを切った。しかしその後、気が緩んだのか?本来の実力なのか?大東、拓殖、国士舘に3連敗してしまい、新2部リーグ残留も危機となってしまう。なんとか東国戦は終了寸前にLB塚原のインターセプトTDで逆転し勝利。この勝利で横国と同率、直接対決で勝利しているためなんとか4位となり、次年度新編成の2部リーグに残留が決定した。

1996年(平成8年)

2部が4ブロックから2ブロックに減り、本当の実力チームばかりとなった新編成の2部に残留した千葉商。この年からスポーツ特別推薦入学制度が始まり、有名高校から5名のフットボール部員が入部した。垂石主将以下ラインメンが手薄のため1年生ラインを組み込まざるを得ない。そんな状況であったが日大、防衛、武蔵工といった力のあるチームと春のオープン戦を組み、リーグ戦に向けて努力を積み重ねた。しかし2部リーグに何とか残った千葉商には上位チームの厳しい洗礼が待っていた。リーグ戦開幕より4連敗、善戦はするものの1、2年生にはプレッシャーがきつい。残りを連勝しなければまた下位リーグに落ちてしまう。大東大戦はディフェンスがうまく機能し、オフェンスもQB折茂からWR日比、SB瀬山へパス、RB新沼、立木のランと次々に加点し55-7で勝利。埼玉大戦はS羽鳥、LB岡崎、野崎、椎橋、陰佐、DL戸塚、真田らの強力ディフェンスで1TDに抑え、37-6で完勝し2部6位となった。

1997年(平成9年)

4月より新潟大、武蔵工、学習院、明治、東国、高千穂、日体、日大と毎週のようにオープン戦を組んで試合経験を積む。昨年に続き5人のスポーツ推薦の強力な選手が入部、ラインメンの層も厚くなる。しかしリーグ戦はQB折茂、1バックからのオフェンスが今ひとつで、頼みのRB中島も故障、1年松原、大島のRBユニットで凌ぐも連敗が続いてしまう。東洋、流経には勝利するも昨年に引き続き2勝5敗で6位に留まる。この年、創部30周年を迎え記念式典が市川グランドホテルで大々的に行われた。

1998年(平成10年)

4年生が少なく、下級生はスポーツ推薦の選手が半分を占めるまでになった。加藤主将も一般学生からの選手とスポーツ推薦の選手との経験力、理解度の違いなどのギャップに悩んでいた。しかし2部ではスカウティング対策だけでは勝ち残れない。やはり個々の力が結集して立ち向かわないと勝利はもぎ取れない。2部も4シーズン目を迎え、何とか上位に食い込みたい千葉商である。そして迎えたリーグ戦だったが、青山、国士舘、桜美林、東経と4連敗。第5戦目の東京工業大には1点差で勝利するも後の東洋、武蔵工に敗れて7位となり、3部との入替戦が決定してしまう。入替戦は首都8リーグ時代のライバル駒澤大学、大井第2球技場でのナイター戦である。千葉商が先制するも2Q、3Qで17点を取られ逆転されてしまう。4Qに千葉商が1TDを返し3点差、残り時間もあとわずかTD以外に勝利の道はない。駒澤勝利確定かと誰もが思った瞬間、1年生ながらもセンス抜群のWR細沼を攻撃のキーにドライブ開始、残り時間数秒でTDを返し21-17と大逆転勝利で2部残留を決めた。

1999年(平成11年)

戸塚、荒川、真田、中島、片桐ら第1回スポーツ推薦入学の選手も4年となり、その後も多くの有望な選手が入部したがなかなか勝てない千葉商。監督、コーチングスタッフも焦燥の色は隠せない。個々の力はあってもチーム力が劣ると勝利は遠い。昨年の悔しさをバネに戸塚主将以下、厳しい練習を続ける。2部は2リーグでシャッフルするため、対戦校は前年とがらりと変わり、筑波、神大、一橋、横国、城西、東洋、国士舘と伝統ある強豪校ばかりと対戦しなければならない。幸いにもこの年も茂在、浜田、川端、加藤などポテンシャルの高い選手が入部した。その反面チームの結束力がどうもシックリいかない。そんな中で迎えたリーグ戦だがQB内田、北川、RB松原、中島、WR細沼、鈴木、ラインは戸塚、真田、荒川、伊東、山下など重量級を揃えているのに得点が入らず、ズルズルと敗退してしまう。国士舘には一矢を報いるが1勝6敗7位となり、昨年に引き続き3部との入替戦が決定する。入替戦の相手は昨年同リーグの対戦で1点差負けから3部に降格していった東工大である。打倒千葉商のムードは大井第2球技場を充満していた。1Q早々に東工が先制、2Qに千葉商が追いつくもすぐに離され、4Qに1TDを返すも逃げ切られ13-20で敗戦し、ギリギリ踏みとどまっていたがとうとうエリア1部(現在の3部)に降格となった。

2000年(平成12年)

6年ぶりにエリア1部(3部)降格した千葉商、しかしメンバーはまだまだ強力メンバーを保持している。その上、花咲徳栄、駒場、堀越、埼玉栄など10人のスポーツ推薦選手が入部してきた。なかには1部校からの推薦を断って千葉商に来た選手も数人いた。春に徳永主将の古傷である足首の手術が決定し戦線から離脱するも、4年生がまとまりリベンジを誓う。そしてエリア1部リーグBブロックのライバル校は、それまで何度か死闘をしてきた東京農大である。リーグ戦は両チーム共に危なげない試合で勝ち星を重ね、全勝同士で最終戦を迎える。QB北川がRB松原、中山をキーにラン攻撃を進めるも東農の重量DLに止められてしまう。ディフェンスは逆にダイブ、パワーとランプレーでゲインを許し得点をされ、思わぬ大差となってしまう。途中エキサイトして一触即発状態ともなるが、時間は刻々と経過してタイムアップとなり、7-41で敗戦となった。

2001年(平成13年)

期待されていた高校経験者QBが家庭の事情で退部せざる得なくなり、急遽、WR細沼をQBにコンバートして臨んだリーグ戦だったが、3戦目の学芸大に痛い星を落としてしまった。4戦目の産能大との試合に望みを繋ぎ懸命に立て直し戦ったが、コーチングスタッフと選手の意思統一が図れずに7-13で惜敗。この時点で今期の優勝もなくなった。最終戦となった等々力球場での国士舘戦(ナイター)では、本来の千葉商らしさを発揮、QB細沼のキープ、RB中山、茂在、一見のしぶといラン、WR加藤、小山がナイスキャッチでドライブを重ね、小山のリバースやDB藤原のインターセプトTDなどビッグプレーも続出して来年に繋がるゲームで締めくくった。

小粒ながら光速リアクションの#9浜田

2002年(平成14年)

千葉商の一時代を築いた安部ヘッドコーチが引退し、後藤コーチがヘッドコーチになりスタッフも若返った。持ち前の明るさで部員を引っ張る浜田主将、RB茂在も4年になりエースとして2部昇格の責務をひしひしと感じていた。気になるのはスポーツ推薦制度で入部する1年生が年々少なくなっていることである。しかしチームワークは抜群で、春より厳しい練習に励んで間違いなく今年は「行ける」と実感した。迎えたリーグ戦は初戦より、RB茂在が爆走、QB藤原からのパスはWR小山、堀口に確実にキャッチされ、河端、池田、新井、阿部、池谷らのラインも完璧ブロックで相手を圧倒、浜田、伊藤、保土田らLB陣も失点を最小限に抑えて勝ち進んだ。そして優勝決定戦となる因縁の東農戦も圧倒的なオフェンス力で撃破。2000年のリベンジを果たし全勝で優勝した。入替戦は昨年の最終戦で盛り上がった等々力球場で創価大との一戦となり、オフェンスは茂在のラン、堀口、小山、加藤へのパス、藤原のキープ、ディフェンスは浜田、伊藤のハードタックル、DB岡野のインターセプトなど終始創価大を圧倒して7-32で勝利、2部復帰にスタンドの応援全員が歓喜の涙を流した。

もうエンドゾーンしか見えない・・・RB#49茂在

2003年(平成15年)

RB茂在が優秀卒業生として「学長賞」で表彰され卒業し、残った部員たちには4年ぶりに2部での大暴れが期待されていた。しかし春先からのケガ人も多く何とか間に合ったという状態でのリーグ戦に突入。初戦の山梨学院に4点差、一橋にも惜しいところまで詰め寄るも敗れた。新潟大にはQB藤原、RB岡野の活躍より勝利したものの、残りの防衛、城西、武蔵工、国士舘に敗れてなんと最下位に沈み、また入替戦に出場となってしまった。オフェンスに力はあるのだがQB藤原の調子に頼る部分も多く今ひとつ安定性に欠ける。そして迎えた入替戦も国際基督教大にまさかの18-21で敗戦し3部に逆戻りとなった。

安定したステップワークでスクリメージラインを突破!鬼気迫るランRB#24一見

2004年(平成16年)

また3部に定着してしまうのか?藤原、堀口、岡野、伊藤、保土田の力をもっても2部では通用しないのか?監督、コーチも首をかしげる。しかし保土田主将をはじめとする4年生は昨年の反省を元に徹底的にチーム分析をして、積極的に練習に取り込む。ちょうど大学グランドが人工芝に変更される工事が行われていて、グランドがまともに使えない。創部の原点に戻り、河川敷や土手で練習を積む。4年生はリーグ戦に入ってからもたびたび合宿をして試合対策を確認して試合に臨む。初戦より白鴎、成蹊、大東、産能と連勝し、最終戦を待たずに優勝を決定した。入替戦はなんと昨年1部入替戦に出場した城西大。昨年のリーグ戦でも徹底的に藤原にプレッシャーをかけ、68-33で敗戦している。昨年のリベンジに燃える商大!試合は取ったら取り返す、壮絶なオフェンス戦となった。しかし商大ディフェンスが城西オフェンスに確実にアジャストし始めてから点差は少しずつ開き、28-41で勝利し、再び2部復帰を果たした。

勝利のVサインはデッカクね!

2005年(平成17年)

大学グランドが人工芝にリニューアルし、2部には復帰したものの大量の卒業生と部員の減少による戦力低下は否めない。まして4年生がリーダーシップを取れないのではチーム力は激減してしまう。春のシーズンからチーム内がギクシャクしていて、今一つ勝利に対する意志統一が見えてこない。しかもそれはリーグ戦に如実に現れた。得点26点、失点486点(1試合平均69.4点)全敗と共に千葉商のワースト記録を作った。当然その流れは入替戦でも変わらずに東洋大に0-54と完敗、またまた3部に落ちてしまった。

2006年(平成18年)

また3部に戻ってきたが、岩上主将は燃えていた。情熱とやる気で必ずまた2部に復帰する。部員数の減少はチームにとって厳しいが、岩上イズムはチームに確実に浸透し、選手も厳しい練習に励んでいた。4年QB吉岡も昨年の悔しさをバネにパス、オプションの精度を上げる。気合い一番で臨んだリーグ戦だったが、初戦の成蹊戦でエースRB鈴木が故障してしまい、優勝候補筆頭の成蹊大に敗戦してしまう。2戦目立正、3戦目東国戦は勝利するものの、RB岩上が徹底的にマークされればランは出ず、少しの動揺がチームに負のベクトルが働く。個々の頑張りを期待するも打開策が見えないまま、高千穂、首都大東京にも敗戦して4位に甘んじた。

2007年(平成19年)

1部リーグで戦っていたこともある山梨学院大が人数不足のために7人制リーグに移動。リーグ戦は1試合少なくなったが残り5チームとも実力伯仲の厳しい戦いとなった。初戦千葉大、2戦目埼玉大と1TDが追いつけずに敗戦。池田・秋山の二人のリーダーがチームを引っ張るが、ここ一番に実力が発揮できずに3戦目の上智大にも大差で敗戦し下位リーグ入替戦の危機となる。全敗対決の獨協大戦は何とか一矢を報いるも創部40周年という記念の年としては1勝3敗と寂しい結果となった。

2008年(平成20年)

4月に十数人の1年生が入部したが序々に脱落、おまけに主力メンバーもケガ他で練習に来なくなり、今年のリーグ戦は「棄権」→「エリア降格」かと思われた。しかし井野主将と4年生が中心に参加規程ぎりぎりの人数で地道に基礎トレーニングを積み、三高商定期戦・夏合宿と少しずつチーム力がアップしていった。そして迎えたリーグ戦は1年生を始めほとんど選手が攻守兼任の総力戦だったが、初戦の上智大に勝利し勢いに乗る。全勝対決の成蹊戦は主力を欠きながらも善戦、しかし2TD差を詰められず敗戦。戦績は4勝1敗で2位となったが、少しずつ「千葉商らしさ」が復活してきたシーズンだった。

2009年(平成21年)

新入部員が思うようにリクルートできず人員的に厳しい状態だが春から地道にトレーニングを積んできたリカオンピクタス。1年生QBの鈴木(快)も成長してリーグ戦が期待された。しかし直前に守備の要であるMLB宮間が故障しリーグ戦は絶望的、そんな過酷な条件下でリーグ戦に突入した。チーム史上最もタフな選手である沼野、鈴木(寛)が攻守に渡りチームを牽引、野木も慣れないラインで死力を尽くす。首都大にはまさかの敗退を喫したが、逆転優勝を賭けた流経大戦、前半リードを守れず後半力尽き逆転負け。シーズンは2敗なれど得失点差で4位に沈んだ。ギリギリの人数で大きな怪我もなくシーズンを乗り切ったことが選手たちには大きな自信になったことは間違いない。

2010年(平成22年)

攻守にわたって活躍しチームを牽引した沼野、鈴木(寛)が卒業してしまったが、その系統を継ぐ宮間が故障から復帰し厳しいながらもシーズンインしたリカオンピクタス。久々の大型ラインの近藤を始め有力な新人も入部し、リーグ戦が期待されていた。しかし、2年QB鈴木(快)が故障、1年生も一人また一人と脱落していき、さらに3年センター月田が骨折で今期絶望と昨年と全く同じパターンでリーグ戦を迎えなければならなくなった。そんな中で宮間主将、横田副将を中心に4年生が主要ポジションでチームをまとめ初戦より健闘するも3連敗、勝負どころの後節は亀田MCLのサポートを受けながらやりくりするがパフォーマンスは現状維持が限界で東国大に2点差、高千穂大に5点差とまさかの全敗、エリア優勝チームとの入替戦となってしまった。対戦チームは春から合同練習をやってきた同じ県内の神田外語大スティンガーズ。強力ディフェンスに厳しい戦いだったが、最後の最後を何とか凌ぎきり3部残留で伝統をなんとか死守してシーズンを終了した。

2011年(平成23年)

4月・5月のリクルート時には未経験者ながら有望な新入部員が集まるのだが、夏前には一人抜け二人抜けとメンバー定着に厳しい状態が続いているチーム事情。昨シーズン離脱していた石井(2年)もカムバックして斎藤と月田(4年)の二人のリーダがどこまで引っ張ってくれるか?手探りの状態でリーグ戦に臨んだが、強力な戦力となるべき吉田兄弟のケガは長引き、経験の浅い1年・2年を6人攻守兼用フルで出場させなければならないゲームプランはあまりに過酷で、シーズン中盤にはケガ人の回復が癒えず「棄権」の瀬戸際まで追い込まれた。しかし上級生の最後まであきらめない姿勢が選手・スタッフを勇気づけ、全敗ながらも何とかリーグ戦を戦い抜いた。そして昨年同様にエリア優勝チームとの入替戦となり、エリア優勝チームは東京経済大学を始め、この数年でメンバーを増やしメキメキと力をつけてきた強豪揃いとの対戦を余儀なくされた。抽選の結果、白鴎大学ラスカルズと対戦。お互い死力を尽くした壮絶なゲームとなったが、直近に卒業したOBがマンツーマンで指導した戦術が功を奏し、何とか後半に点差をつけて入替戦に勝利し、今年も首の皮一枚で3部残留と踏みとどまった。

2012年(平成24年)

2年連続リーグ戦全敗と勝ち星から完全に遠ざかっている商大リカオンピクタス。課題のメンバー定着も今ひとつ改善できずに1年生頼みの状況が継続していた。春から井野コーチ・宮間コーチを中心にトレーニングコンディショニングから日々の食生活に至るまであらゆるサポートをやってきた。しかし夏の1年生離脱は避けられず、また登録人数ギリギリでのリーグ戦突入となった。最上級生となったQB門内がどこまでゲームを作れるか?と同時に下級生がケガをせずにどこまでやってくれるか、大きなケガの発生で即終焉を迎えてしまう。初戦の千葉大戦は豪雨でのファンブル多発で自滅、2戦目流通経済大戦は接戦から離されて取り返せず敗戦、3戦目創価大戦はランプレーが止められず大差でボロ負けした。3戦目が終了した時点でWR、RBと攻撃のスキルポジション選手が複数ケガでプレーできる状況ではなくなった。どうにか残り試合を戦い抜こうとミーティングを重ねたが、4戦目の大東文化大学戦直前に選手・スタッフの話し合いの結果、藤崎主将が「棄権」という苦渋の選択をせざる得なくなった。残りの大東文化大、立正大の試合を棄権して、3部からエリアリーグへと自動降格となった。

2013年(平成25年)

昨年の棄権から創部以来初の最下位リーグ、エリアリーグスタートとなる2013年、最後の高校フットボール経験者酒井・吉田が4年としてチームをまとめる。優秀な1年生が多数入部してくれたが、即戦力は到底無理な現状。しかし、三高商・X2ブルーサンダースとの合同練習で着実にレベルアップし、チームの土台は作り上げてくれた。そして迎えたリーグ戦、RBからのコンバートでQB1年目の小原(3年)が初戦帝京平成大戦を6TDと走りまくり45-0と完封勝利する。第2戦理科大戦は理科大の圧倒的なマンパワーと経験不足の1年生のミスが重なり完封負け。最終戦の茨城大戦はデッドヒートの接戦を小さいミスが最後まで尾を引き惜敗した。4年生酒井・吉田のエリア降格の悔しさは選手育成をステップに必ずリベンジできるまでのレベルに引き上げてくれた。再建の道のりはまだまだ遠く一朝一夕では形にはならないが、意識の高い下級生たちが必ずまた3部に復帰してくれることを期待したい。

2014年(平成26年)

エリアリーグ2シーズン目を迎え、難敵東京理科大が正式リーグ加盟となり昨年同様厳しいシーズンインとなった商大リカオンピクタス。春の新入部員リクルートに力を入れて十数名の1年生が入部してくれたものの、常時練習参加人数はいつも少なく最後の最後まで見通しの立たない状況が続いていた。そんな中でも主将小原(4年)を中心にOBの協力のもと日々の練習に取り組みながら、リーグ戦に突入。初戦江戸川大が棄権し10月後半の東京理科大戦が事実上の初戦となった。ニコラス・伊井ら2年生、後藤・山田ら1年生が上級生と共に死力を尽くすも昨年同様に完封負け、次の宿敵高千穂大戦も最後まで攻めきれず敗戦。最終節帝京平成大戦は辛くも逃げ切り勝利し2勝2敗で昨年同様3位となった。

2015年(平成27年)

「人は城、人は石垣、人は堀・・・」部員減少はなぜここまで進んでしまったのか?中途で退部していく部員が毎年継続で発生し、部員定着に問題を抱えるリカオンピクタス。体育会特有の上下関係など皆無の状況でなぜ定着しないのか?夏を過ぎると1年生はほとんど退部してしまい、本年度は7人制リーグの参加が迫られた。同様の人員不足危機に瀕していた江戸川大学ヘッジホッグス監督からの要請もあり、リーグ戦は合同チームで参加することになった。しかしいざ合同で練習してみるとフットボールの理解度に大きな差があり、その差は急造チームの致命傷となるウィークポイントになった。2試合はなんとか戦えたが最終戦前にQBのニコラス(3年)が骨折してしまい、最終戦の神田外語大学戦を棄権してエリアリーグBブロック最下位でシーズンを終了した。

2016年(平成28年)

長年チームを率いて育成してくれた川越監督が逝去し、部員もとうとう残り4名となりいよいよ廃部への覚悟はできていた。しかしこの4人と新監督を任命された木村監督、各代OB/OGのサポートによってリカオンピクタスに十数人の新入生が入部する「奇跡の50期」。しかしリーグ戦はスキルポジションがほぼ1年生という経験不足とケガの回復が遅れてまたも最終戦は棄権、昨年同様にエリアリーグBブロック最下位でシーズン終了となった。

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2017年(平成29年)

厳しい時代を経験した伊井、ニコラスが卒業し、その流れを知る後藤(4年)櫻井(3年)が少しづつ経験値を上げてきた2年生と共に日々の練習に励む。この年も入部者は少なく、部員人数の底上げは図れなかった。しかし11人制への参戦は伝統のタスキを繋ぐべく、部員の気持ちを一つにしてリーグ戦に臨む。攻守のバランス良い帝京平成大には完封負けであったが、台風豪雨の中での日本工大戦は0-0スコアレスドロー、最終戦の千葉工大戦は一進一退の息詰まる攻防を1点差で凌いで帝京平成に次ぐ2位となり、廃部の危機からのリバウンドをしっかりと意識できた収穫の年となった。

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2018年(平成30年)

たった一人の4年生櫻井主将も最終年度を迎え、3年間チャレンジしても未だ勝てない帝京平成大戦へのリベンジに燃えていた。おりしもリカオンピクタスも創部50周年を迎え、OB/OG、関係者共にリカオンピクタスの復活を願っていた。中心メンバーの3年生もフットボールへの理解度が浸透し、今年こそ3部昇格チャレンジを狙える位置にいた。千葉工大、日本工大戦を無難に退け、最終戦の帝京平成大戦は、思わぬミスを連発した商大リカオン。浮足立ったプレーは終始モメンタムを引き戻せないまま、7-32と大差で敗戦。櫻井の4度目のチャレンジは涙と共に次年度の後輩たちへ再び引き継がれた。

2019年(平成31年)

学生スポーツの厳しいところは選手が入れ替わりながらも力量を保たなければならない点に尽きる。潤沢な人員を確保できている上位リーグチームと異なり、下部リーグチームは少子化も伴いチームの存続さえ厳しい状況下に絶えずさらされる。奇跡の50期も4年生となり、杉浦主将を中心にリクルートに励む。何年か周期で部員が増える不思議な現象のこの年、入部者も増えて帝京平成大の追撃に準備が整った。異常気象と思われる台風が直撃、初戦が最終戦に移動させられるスケジュール変更、千葉工大・神田外語大合同チームを退け、数シーズン連続で勝てなかった帝京平成大にも完封勝ちをもぎ取り、最終戦の日本工業大戦は薄氷の勝利だが9-7と逃げ切りとうとうエリアリーグBブロックの頂点にたった。3部との入替戦はやはり今まで勝てなかった茨城大学スターゲイザーズ、厳しいゲームを僅差で逃げ切り8シーズンぶりに3部に復帰した。

応援感謝の言葉、そして入替戦へ!